『零(zero)に立つ〜激動の一世紀を生きた中川イセの物語〜』
※この作品は、もともと、女優・夢実子が演ずる語り劇として書かれたものを、
脚本を担当したかめおかゆみこがノベライズしているものです。
※これまでのあらすじと、バックナンバーは、こちら
ときははるかにさかのぼって、1967年(昭和42年)。
市議会議員6期目の当選を果たした年のことである。
イセは、生まれ故郷の天童市をたずねた。
1918年に17歳で北海道にわたって以来、実に、49年
ぶりの訪問であった。
来訪のきっかけは、天童市市議会議員、渋谷亨雄の強い
すすめがあった。
このころ、イセの名前は、全国的に知られるようになって
いた。
娼妓から市議会議員という経歴や、その生い立ちのすさま
じさを、マスコミがとりあげはじめたからである。
記録に残るところでは、1959年7月、『婦人倶楽部』(講談
社)が、「私は網走のばばちゃん」という、イセの記事を掲載
した。
その7年後の1966年6月には、『女性自身』(光文社)が、
「女優志願・赤線・女馬喰 そして…」として。
同年7月には、『週刊文春』(文藝春秋)が、「娼婦から市議
へ・網走の女傑一代」(村島健一)を。
また、9月には、『主婦と生活』(主婦と生活社)が、「売春婦
から藍綬褒章への女のいくさ」として。
まさに、「イセ旋風」ともいうべきいきおいで、イセの名前は、
全国に広まっていったのである。
渋谷も、そのような記事で、イセを知ったのだろう。
しかも、渋谷は、天童市にある三宝寺の住職でもあったの
だが、この三宝寺は、イセの実家である今野家の菩提寺で
あったのだ。
縁を感じた渋谷は、イセに連絡をとり、ぜひ、故郷・天童を
たずねてくれるよう、強くすすめたのだ。
1932年(昭和7年)、愛子を引き取ったときには、みずか
らは天童まで迎えに行ってやることができなかった。
自分を、どん底に突き落とした八重松への憎悪が、まだ強
くこころにうずまいていたからである。
しかしそれからさらに30年。
夫・卓治は5年前に他界し、愛子の子ども・尋仁もその翌年
に世を去っている。
愛子は、そのときの主治医と再婚し、いまは美容師としてが
んばっている。
何もかもが過ぎ去った。水に流せるとは思わないが、故郷の
土を踏むことを、ためらう理由はない。
何よりも、かつて小学校のころの親友・村方みよし(旧姓・渡
辺)とは、しばらく前から、交流を再開しており、手紙や電話
で、「会いに来てほしい」と言われていた。
いまがタイミングなのだ、と思った。
半世紀ぶりにおとずれた天童市は、子どものころとは比べ
ものにならないくらい、おおきな街に変貌していた。
イセは、里子として育った佐藤家をたずねた。
あの、17歳の冬に、山形駅で別れるとき、麦のおにぎりを
もって見送ってくれた、里親のコウ。
「おれが生きているうちに、きっと帰ってきてくれよ」
あの約束は、果たすことができなかった。
案内されたコウの墓に花をたむけ、イセは長いこと、祈りを
ささげた。
そして、なつかしいみよしとの再会。
お互いに年をとってはいたが、一瞬にして、ときが埋まっ
てしまうような想いで、二人は語り合った。
そのあと、一緒に通った荒谷小学校をたずねて、職員のひ
とたちと、記念写真におさまったのだった。
もちろん、議員として、市役所を表敬訪問することも忘れ
ない。
ここから、天童市とイセの交流ははじまるのである。
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「紋別市街(スカイタワーより)」
写真提供/北海道無料写真素材集 DO PHOTOさん