『零(zero)に立つ〜激動の一世紀を生きた中川イセの物語〜』
※この作品は、もともと、女優・夢実子が演ずる語り劇として書かれたものを、
脚本を担当したかめおかゆみこがノベライズしているものです。
※これまでのあらすじと、バックナンバーは、こちら
理事長になったイセは考えた。
負債を減らすためには、増収するしかない。
増収するためには、なんといっても、入場者数をふやす必要
がある。
とはいえ、負債をかかえる身では、広告等にたよることはむ
ずかしい。
イセが考えたのは、旅行ツアーに博物館見学を盛り込ませる
ことだった。
そこで、みずから、館職員とともに、旅行会社を駆け回り、
博物館「網走監獄」の価値と魅力を語り、ツアーのコースに
組み込むことを提案した。
実際、これだけの施設がまとまって現存する博物館は、なか
なか例を見ない。
とくに、1985年(昭和60年)に公開開始となった、「五翼
放射状平屋舎房」は、独特の形状をもち、瞠目に値する。
博物館「網走監獄」のサイトより
5つの舎房が、中央見張り所からすべて見渡せる。
さらに、独居房は「くの字格子」で作られており、廊下がわ
からもなかが見えず、なかからも外が見えにくい構造になっ
ている。
さすが、懲役12年以上のものだけを受け入れた刑務所だけ
ある。
しかも、この舎房は、刑務所の施設としては日本国内最古で
あり、木造の行刑建築としては世界最古となっているのだ。
もちろん、そこで人生の長きを過ごした受刑者たちの、さま
ざまなエピソードを語ることも忘れない。
そんなアピールが功を奏し、網走監獄を、観光ツアーに組み
入れる旅行会社がふえてきた。
それにつれて、入場者数も、ぐんぐん伸びた。
とくに、修学旅行のコースに組み入れてもらうことができて
からは、その伸びは確実なものになった。
開館10周年を迎える1993年(平成5年)には、同年の入場
者は60万人、開館以来の総入場者数は300万人を超える
までになったのだ。
もちろん、イセは、宣伝のみに奔走したのではない。
施設の充実にもちからを入れた。
当初、旧刑務所の施設の移築復原を中心としていたが、移設
がむずかしい施設もあり、それらは、再現構築というかたち
をとった。
負債を返す一方で、収益を、博物館の内容の充実にあててい
くことで、2度、3度おとずれる魅力のある施設づくりを目ざ
したのである。
ところで、復元施設に関しては、こんなエピソードがある。
博物館「網走監獄」は、天都山(てんとざん)の中腹に建って
いるため、傾斜地にある。
施設によっては、さらに階段があって、高齢者や身体にハンデ
をもつものは、のぼるのが大変である。
あるとき、イセは、職員にこう言った。
「この段差の一部を取っ払って、スロープにしよう」
職員は仰天した。
「理事長、これは、歴史的建造物ですよ。それを勝手にこわ
していいんですか?」
イセは、平然としたものだった。
「お客さんは、こんな傾斜地にある博物館に、わざわざきて
くれるんだ。それをさらに大変な想いをさせるのかい」
その結果、階段の一部がスロープに改築された。まだ、バリ
アフリーということばが、一般化する前の話である。
是々非々はあろうが、イセらしい判断である。
また、イセは、地元の法人、私立網走学園網走女子高等学校
の理事もつとめていた。
(のちに共学となり、2008年には、網走向陽高等学校と統合
されて、北海道網走桂陽高等学校として引き継がれる)
その関係もあるのだろう。職員のうち、一定数は、必ず、高
卒のものを採用していた。
当時は、すべての生徒が大学に進学するわけではない。ひと
りでも、地元に就職させてやりたいという配慮であったろう。
また、大卒ではなく、高卒をというところも、自身が、尋常
小学校4年までしか出ていないことへの思いもあったのだろう。
さて。博物館「網走監獄」の名前が、全国的にも有名になっ
てきた、1995年。一本の電話が、博物館に入った。
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写真提供/北海道無料写真素材集 DO PHOTOさん