語り劇『零(zero)に立つ
〜激動の一世紀を生きた中川イセの物語〜』
日時/2016年8月27日(土)18:00開演
会場/シベールアリーナ(客席数522)
観劇料/3000円(当日3500円)
チケット発売開始は、6月20日!
本日、公演87日前!
脚本担当・かめおかゆみこです。
山谷一郎著『岬に駈ける女』を主要資料としながら、かめおかの視点で、イセさんの
物語をつむいでいます。物語ですので、すべてが事実ではなく、想像やフィクション
がまじる部分もあります。けれども、イセさんの生きかたの根本ははずさないで書い
ていくつもりです。ご感想をいただければ励みになります。よろしくお願いします。
第1章 1 2 3 4 第2章 5 6 7
朱に交わればあかくなるということばがあるけれども、まさに、
みよしがそうだった。みよしは、イセの豪快なまでの食欲に、
すっかり感化され、うそのように、よく食べるようになった。
イセの食欲は、日頃空腹であったことの裏返しにはちがいな
かったけれども、生来のものもあったにちがいない。
網走で、のちの夫になる中川卓治も、イセの大食らいぶりに
感嘆して、それがイセを気に入る一因にもなっている。
いずれにしても、みよしの両親にしてみれば、きかん坊で評判
のイセの、この、想いもかけぬ一面に、こころから感謝したこ
とは言うまでもない。
佐藤家では、相変わらず、コウの長女・ツタとの攻防戦がつづ
いていた。そして、炊事番をツタがになっている以上、イセに
はとうてい勝ち目がない。
その日、ツタは、何かおもしろくないことでもあったのだろう。
イセがちゃぶ台の前にすわって待っていても、知らんぷりして、
飯をつごうとしない。
「まま(飯)、よそってほしいんだけど…」
待ちかねて、イセがそろっと言うと、ツタは、にべもなく、言
い返した。
「誰が、ばかくさいこと言ってら。うちには、育て賃も入れな
いやつなんかに、食わせるままはないよっ!」
「そだらこと言っても、銭なんてもってねえもの」
「ああ、ああ、んだら、食わねばいいべ。おまえなんかに、誰
が、うちの大事なまま、食わせっか!」
頭ごなしにどなられて、イセは、悔しさに、ぐっと奥歯を噛み
しめた。
2歳になるかならぬときに、佐藤家に引き取られて、4年が経
つが、父親の安蔵は、一銭たりとも寄こさぬどころか、のぞき
にきたことすらない。どうやって銭を手に入れろというのか。
ひもじさと情けなさを気取られたくなくて、イセは、歯を食い
しばったまま、ふいっと立ち上がると、玄関を出た。そのときだ。
「イセちゃん、イセちゃん」
顔をあげると、そこには、みよしの家の使用人がいた。
そして、そっと耳打ちするように、こう言った。
「奥さまがね、うちにおいでなさいって」
使用人のあとをついて、渡辺家をたずねると、みよしの母が、い
つもの笑顔を見せて、イセに声をかけた。
「イセちゃん、よくきてくれたわね。ちょうどごはん食べようと
思ってたとこなの。イセちゃんも一緒にどう?」
イセはよろこんだ。もう、今日は、何も食べられないと、なかば
覚悟をしていたからだ。お膳に出された食事を、イセはかきこむ
ようにたいらげた。
「おかわりもあるから、ゆっくりお食べなさい」
こんなことが、その後もたびたびつづいた。ツタが「まま食わせ
ねえっ!」とどなったあとは、決まって、みよしの家の使用人が、
イセをこっそり迎えにくるのだ。
イセは、飯が食べられることもありがたかったが、それ以上に、
ツタの鼻をあかしてやれることが、なおうれしかった。
たとえ、年上であれ、誰かにしてやられるということが、イセに
とっては、たえがたい屈辱だったのだ。
この、人並みはずれた負けず嫌いの性格が、のちのち、イセを
窮地から救っていくことになるのだから、人生はわからない。
「まま食わせねーっ!」
叫ぶツタを尻目に、イセは、そそくさと玄関に出る。みよしの
家では、このところとみにふっくらしてきたみよしが、手をふ
って、イセを歓迎してくれる。
イセとみよしとの友情は、こののち生涯つづくことになるのだ
が、この「飯事件」は、まちがいなくその友情に、効果を添え
ていたにちがいない。
※能取岬。オホーツク海の上に、どこまでも広がる青い空