語り劇『零(zero)に立つ〜
激動の一世紀を生きた中川イセの物語〜」
日時/2016年8月27日(土)18:00開演
会場/シベールアリーナ(客席数522)
観劇料/3000円(当日3500円)
本日、公演96日前!
脚本担当・かめおかゆみこです。
山谷一郎著『岬に駈ける女』を主要資料としながら、今日から、
私なりに、イセさんの物語をつむいでいきたいと思います。
物語であるので、すべて事実というよりも、多少の想像やフィ
クションがふくまれることはご了承ください。
お読みいただき、忌憚のないご意見やご感想をいただければ
幸いです。よろしくお願いいたします。
第1章 いせよ誕生
「山形はさ、冬は寒さがきびしいんだ。
昔の話だけど、道ですれちがったら、
『どさ』
『ゆさ』って。それしか言わないの。
意味、わかる?
『どこさ行く?』
『湯(銭湯)さ』ってこと。
寒いから、なるべく口ひらかないようにしたって。
いや、本当の話かどうかわかんないけど、
そんくらい寒かったってこと」
山形のひとから聴いた話である。
どのくらい昔のことか知らないが、温暖化のいまに比べれば、
かつては、どこも、ずっと寒かったことだろう。
まして、今野いせよ(のちの中川イセ)の生まれた村山地方は、
置賜地方などと比べれば、山に囲まれ、日照時間も少なく、い
っそう寒さを感じさせたかもしれない。
1901年(明治34年)8月26日。イセは、東村山郡干布村
(現 天童市)上荻野戸に生まれる。父は今野安蔵。母は、サダ
(またはサタ)。けれども、この結婚は、あまり幸福なものであっ
たとはいえない。
今野安蔵は、おもて向きは桑の中買いをなりわいとしていたが、
一方では、見せ物小屋を打つなどの興行の仕事、さらには賭場
をひらくなどの、裏の仕事にも精通する、やり手の男だった。
当然、女関係も派手で、ひとりめの妻は、その女関係に愛想を
つかして家を出てしまったほどだ。
そんな安蔵が目に止めたのが、地主の娘・サダだった。安蔵に
とって、サダは、すむ世界のちがう、いわば高嶺の花だった。
それだけに、手に入れたいという想いをつのらせたのだろう。
サダの家に日参したり、待ち伏せて、当時は珍しかった自転
車にサダを乗せて家に送り届けたり、子分たちを使って、2
人は親から結婚をみとめられたなどのうわさを流したり…。
そんな安蔵の強引さに、世間知らずのサダがとりこまれたの
は、無理からぬ話かもしれない。結婚話は決まったものの、
サダは、「ヤクザモノのところにとついだ」という理由で、
家から縁を切られてしまう。
そして、世間によくある話だが、それだけ想い入れて結婚し
たサダにも飽きて、安蔵は数年後には、もう別の女に入れ込
んでいた。
そんなさなかに、イセは産まれることになったのである。
もっとも、サダが子どもを身ごもったことで、安蔵は、素直
によろこんだようだ。安産祈願に、お伊勢参りに出かけてい
るくらいである。
そんなところが、この男、安蔵の憎めないところではある。
そして、「お伊勢参りで産まれた子だから、名前はおいせだ」
と決めて、戸籍係に届けにいくのだが、ここでひともんちゃく
あった。
戸籍係が、「自分の娘の名前に敬称(「お」)をつけるのは
おかしい」と、安蔵にたいして注文をつけたのだ。
「なんだと。お伊勢参りで、おいせ。なんの問題がある」
「ですからね、敬称をつけるのは…」
「うるせえ。オレがいいと言ってるんだから、いいんだ」
もとよりひとの話になど耳を貸す男ではない。頑として、
戸籍係の言うことを受け付けようとしない。
「なんと言おうが、名前は、おいせよっ!」
戸籍係も、だんだん面倒になってきたのかもしれない。
安蔵が、字が読めないのをいいことに、戸籍簿に、
「いせよ」と書きつけてしまった。「おいせよっ!」が、
「いせよ」に変化してしまったわけだ。
そうとは知らない安蔵は、意気揚々と家にもどってきた。
「名前は、おいせだぞ!」
そんなわけで、当のイセが、自分の本当の名前が、「お
いせ」でも「いせ」でもなく、「いせよ」であると知る
のは、成長したずっとのちのことである。
※能取岬の灯台。この岬で、イセさん一家は暮らしていた。