『零(zero)に立つ〜激動の一世紀を生きた中川イセの物語〜』
※この作品は、もともと、女優・夢実子が演ずる語り劇として書かれたものを、
脚本を担当したかめおかゆみこがノベライズしているものです。
※これまでのあらすじと、バックナンバーは、こちら
そんな機会があってから、イセは、しばしば、刑務所での講
話に呼ばれるようになった。
イセの体験談には、苦労や悲惨な内容だけではなく、笑いも
あった。
米沢の人絹工場から逃げ出そうとして、塀を越えるときに、
着物のすそが引っかかって、ぶら下がり、あやうく宙づりに
なりそうになったという話。
遊廓で、妹ぶんの娼妓の首をしめようとした中年男を、一本
背負いで、のしてしまった話。
古い借金証書で金をせびろうとした男が、酒のいきおいで調
子づいたのを利用して、逆に、すっからかんにさせてしまっ
た話。
とにかく、イセの「武勇伝」には枚挙にいとまがない。
イセの苦労話に、さっきまで涙を浮かべていた受刑者が、今
度は、涙のかわききらぬ顔で笑う。
ふだんは、笑い声などめったに聴こえない刑務所のなかに、
大勢の笑い声がひびくと、警護の看守たちも、「おやっ」と耳
をかたむけるのだった。
評判を聴いて、イセを講演に呼びたいと依頼してくるところ
も、ふえてきた。
また、個人的に話を聴いてほしいというものも、前にもまし
てふえてきた。
イセの家には、しじゅう、ひとが出入りして、相談ごとやお
願いごとをもちかけてくるようになった。
あるとき、小学生の男の子を連れた女性が、「話を聴いてほ
しい」と、相談にきた。
聴けば、夫が罪を犯して、刑務所に入ってしまった。子ども
が、そのことで友だちにからかわれ、学校を休みがちになっ
てしまったという。
男の子は、母親がイセに相談するのを、じっとうつむいて聴
いていた。
イセは、しゃがみこむと、男の子の顔をしっかり見て言った。
「刑務所に入っていることは、なんもはずかしいことではな
いよ。
ひとは誰でも、まちがったり、道をあやまったりすることが
ある。
お父さんは、まちがったことをちゃんとみとめて、それをつ
ぐなうために、いま、刑務所でおつとめをしているんだ。
ひととして、なすべきことをしているんだ」
男の子は、顔を上げ、びっくりしたようにイセを見た。
イセは、にっこり笑って、男の子の頭をなぜた。
「わたすもね、子どものころ、父親が刑務所に入っていて、
まわりの子どもたちに、さんざんからかわれたよ。
だけど、負けなかった。からかうやつのほうがおかしいって、
言い返してやったよ。
君は、何もまちがったことも、いけないこともしたわけでは
ないのだから、堂々と学校に行きなさい。
そして、お父さんが帰ってきたときに、ぼくはがんばったよ
って、しっかり報告してやりなさい」
男の子は、真剣な目でイセを見ると、こくりとうなずき、次
の瞬間、ぱっと笑顔になった。
そばで見守っていた母親の目から、涙があふれた。
イセは、その母親に言った。
「あんたも、毎日大変だろうが、だんなさんの留守中、子ど
もを守ってやれるのはあんただけなんだから、しっかりがん
ばるんだよ」
母親はうなずき、何度も礼を言って、帰っていった。
その後、手紙が届き、あれから子どもは元気に学校に通って
いるということだった。
後日、イセは、ふたたび網走刑務所に呼ばれたとき、この話
をした。
「子どもたちはね、親がどんなことをしても、親のことをき
らいにはならないです。
ずっと、早く帰ってきてほしいって待ってると思います。
もしも、このなかに、お子さんのおられるかたがいたら、ど
うぞ、お子さんのことを思い出して、
一日も早く帰れるように、毎日をしっかりおつとめなさって
ください」
イセがそう言うと、受刑者のなかから、いっせいにすすり泣
きの声がもれた。なかには嗚咽するものさえいた。
この話には後日談があって、数年後、ひとりの男が、イセを
たずねてきた。
「以前、大変お世話になりまして…」
見慣れない顔だったので、イセがけげんな顔をすると、男は
照れくさそうに言った。
「実は、あのとき、話に出た子どもは、自分の子どもでして
…あれにはまいりました」
「そうだったんですか。で、いまは…」
「はい。おかげさまで、この春、無事に刑期を終えました。
いまは家にもどって、細々とですが、かたぎの仕事をして
おります」
「そうですか。お子さんのために、奥さんのために、これか
らもしっかりやってください」
「ありがとうございます。あのとき、話を聴かせてもらわな
かったら、いま、こうしてここにはいなかったと思います。
どうしてもお礼が言いたくて、うかがいました」
男は、深々と礼をして、帰っていったのだった。
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「ゴマフアザラシ(とっかりセンター)」
写真提供/北海道無料写真素材集 DO PHOTOさん